エニアグラムというものを数年前から勉強しました。9つのタイプの中で、私はどうやらタイプ4らしいです。エニアグラムに関しては数多くサイトがありますので、そちらを御覧ください。人間というものを知るのにいい勉強になります。
タイプ4は常に人とは違う「特別な存在」でありたい。自分らしくありたい。と考えて行動します。
ひと言で表現すると「個性的な人」「マイワールドな人」「ロマンチスト」らしいです。
もっとわかりやすい表現は、「一人でいるのはきらいじゃないけど、孤独はイヤ」というタイプです。(笑)
わかるかなぁ〜
英語で言うとindividualistとなりますが、これが曲者です。辞書を開いてみると、1個人主義者 2利己主義者と出てくるのです。
私は個人主義的な性格は確かに持っています。しかし利己主義者と言われると違和感を感じます。そこで、この2つの言葉を改めて考えてみます。
個人主義と利己主義は当然ながらその意味が違います。しかし、現代社会の人々の生き方を見ていると、最近の日本人はその意味の違いを理解していないように私には思われます。あるいは、これらの二つの言葉を、各人が自分の都合のよいように勝手に解釈しているのかもしれません。モンスターペアレントなどは典型例です。
個人主義は、個々の人間の主体性を重んじて、一人一人の個人が自由に生きることの権利が保障されている代わりに、個々の人間が集合して成立する社会に対して個人としての自覚と責任を負うものだと思います。
一方、利己主義は、自分が益することだけを行為の基準として、他者のことや個々の人間で成り立つ社会の利益を全く考慮することなしに、自己本位な生き方を推し進める考え方でしょう。
個人主義と利己主義という、これら二つの言葉に対するおおまかな定義からも、その違いが明らかだろうと思います。この定義に当てはめて、近頃の日本人が個人主義というよりも非常に利己的であることが理解できるのではないでしょうか。日本人は個人主義と利己主義を同じ意味合いのように私には思えます。歴史を振り返ってみます。
戦前の国家主義的な日本では、個人の主体性を重んじる個人主義は許されなかったでしょうし、そもそも個人主義という概念すらも存在していなかったのではないでしょうか。日本の敗戦によって、国家主義的な思想は廃され、そして西欧諸国の理念である民主主義が導入されました。精神的にも物質的にも全くゼロの状態に置かれた日本人は、戦後の混乱期をただ食べんがためにひたすら働いて、その結果として日本は物質的には非常に豊かになりました。借り物ではあっても西欧の物質主義的な民主主義と、戦前の教育において日本人の精神に叩きこまれた勤勉という徳性によって、戦後の日本人は、皆無状態にまで荒廃してしまった日本を奇跡的とも言えるほどめざましく復興させたのです。
しかしその一方で、戦後の日本人は、西欧民主主義の土台である個人主義を受け入れて学び、そしてそれを基礎にして日本人の精神的な価値観を再構築することをなおざりにしてしまったのではないでしょうか。
西欧の個人主義は、西欧諸国の長い歴史を通して培われ、そして西欧社会の中で確固とした基盤を持つものに発達したのでしょう。戦後の混乱期における日本人にとって、戦前に培われた国家主義的精神性を重んじる価値観が敗戦を境にして完全に崩壊してしまったとき、西欧の個人主義を学んで、それを土台にして日本人の精神的な基盤となる新しい価値観を再構築している時間などなく、ただひたすら自分たちの生活における物質的な基盤を建て直すことだけに奔走していたことは理解するに難くありません。
それに、各民族の価値観は、民族の風習や伝統に基づく日々の生活を通して長い年月に亘って築きあげられるものですから、或る時点で、それまで日本民族を律していた固有な価値観が一挙に崩壊して、そして自分たちが培ったものではない、他民族の価値観を導入しても、そのような借り物の価値観は、異民族である私たち日本人の精神や社会風土の中に一朝一夕にして植えつけられるものではないでしょう。
個人の自由など考えられないような戦前の国家主義が消滅して、戦後の西欧民主主義によって個人の自由が享受できるようになったとき、多くの日本人は、その自由を、他人のことは構わずに自己の利益のみを追求してよいとする利己主義と誤解してしまったとしても仕方ないことでしょう。なぜなら、民主主義が導入されるまで、主体性を持つ自由な個人の在り方という個人主義の観念など存在していなかったでしょうし、個人に対して自由が保障されること自体が、日本人にとっては極めて新奇な体験であったに違いないからです。
ですから、個人主義という概念を受け入れる思考基盤が醸成されていなかった当時の日本人にとっては、自由そのものだけに幻惑されて、自由を享受するためには責任が伴うという、西欧の人々においては当たり前の観念を理解するまでには至らなかったのであろうと思われます。従って、日本の未来を担う子供たちを育む家庭においても、学校という教育現場においても、西欧的個人主義に立脚した民主主義が根を下ろしているわけではなく、利己主義を個人主義とはき違えている人々が親となり、教師となって、子供たちを指導しているのですから、利己的な子供たちが多く輩出されるのは当然の結果と言えるでしょう。
それゆえ、良識ある日本人の目から見れば、その目を覆いたくなるほどに、精神的に荒廃している日本の現代社会のありさまは、戦後六十年の間、私たち日本人が精神的な価値観を再構築することを疎かにしてきたことの結果を表しているのでしょう。
戦後70年もの年月を経て、日本人は今、物質性のみを追及するばかりで、精神性を等閑にしてきたことのつけを払わされつつあるのではないでしょうか。私たち日本人が物質的には潤沢になった日本をこのまま世界の先進国として維持したいと願うのであれば、私たちは、物質偏重の価値観を改めて、精神性と物質性とが均衡している新しい価値観を建て直さなければならないのではないでしょうか。
まず私たち日本人が為すべきこととは、個人主義と利己主義の違いをしっかりと理解して、害悪なる利己主義を徹底的に排除することでしょう。個々なる人間の主体性を重んじる個人主義は、如何なる国においても社会の基盤になるものだと思います。良い意味での個人主義が日本人の心の中に根づくのは非常に大切なことでしょう。けれども、個人主義はともすれば、自由の意味をはき違えて利己主義になりがちですから、個人主義の根幹を成す自由というものの概念を各個人がしっかりと把捉しなければならないでしょう。
社会において個人の自由が保障されるということは、それに伴って個人の責任が付帯されることを意味しています。自分の好き勝手にしてよいということが、自由の意味ではありません。それは自由の意味をはき違えていることです。自分が自由でありたいためには、他者や社会に対して責任を負うのであり、他者の自由を侵害してはならないのです。自分が自由気ままに行動することで、他人の自由を侵害するようなことがあれば、それは利己主義であって、断じて個人主義ではありません。
個人主義という、西欧の立派な概念を日本人が理解して、そしてそれが日本人の精神の中にしっかりと根づくには、なお暫時の時間が必要とされるのでしょう。良い意味での個人主義が日本人の心の中に確立されないならば、戦前における個人を雑に扱い、国家の中に個人を埋没させてしまうような国家主義と同様に、主体性を持たずに付和雷同する民衆が生み出されるだけであり、そのとき、日本が西欧先進諸国と歩調を揃えることは極めて困難なことになってしまうでしょう。
ですから、個人主義を基盤にしている西欧の民主主義から学ぶべきことを学んで、そして日本人自身による精神的な価値観の再構築が急務のことであるということを、現代社会の混沌としたありさまが私たち日本人に指し示していると私は考えています。